遼東の燕王

三國志といえば、後漢末期の動乱から、魏、呉、蜀の三ヵ国によって中国が3つに分かれ、晋によって統一されるまでの物語だと言われている。

しかし、もう一つ王朝が存在しているのだ。

遼東半島、19世紀に日清戦争で日本軍が勝利した結果、日本軍が借地権を得て、三国干渉によって清に返還を余儀なくされた場所であり、その後ロシアともこの一帯の権益を争い戦争になる。その後は満州国支配下となり、太平洋戦争が終結すると中華人民共和国編入され、中国東北部の一地域である。

三国時代においては、言語や風習は漢人そのものであるが中原の人間からは、中華世界の外の化外の地とされた。

三國志の時代は、公孫氏が後漢王朝によって封じられていた。あまりに辺鄙な所であるため後漢王朝の動乱にあまり振り回されることなく半独立状態となる。三国が鼎立すると当時の公孫氏の当主である公孫淵は魏か呉いずれに味方するかの選択を迫られることになる。最初は魏に恭順するも呉の親善の使者が来ると寝返ろうとするが魏と対決することを恐れた公孫淵はなんと呉の使者を切って魏の都洛陽まで持ってきている。この功績をもとに魏の皇帝によって大司馬の位を与えられるが、称号に不満を持ち自ら燕王を自称し、魏と手を切って独立。

しかし、後の晋王朝の礎を築いた司馬懿によって1年で鎮圧させられる。

なんとも短命で超ローカル王朝である。しかし私が興味を持った理由は、邪馬台国とこの公孫淵は大いに関係があるのだ。なんと卑弥呼が魏の皇帝から親魏倭王の金印を贈呈される前はこの公孫氏に貢物を送っていたのである。公孫淵は周辺の異民族などにオリジナルの玉璽や金印を使って見せびらかしていたという(ニコニコ大百科調べ)

もしこの公孫淵が滅びずにずっと遼東に君臨していたら、ないし、魏が内紛や、呉蜀との戦争で衰え河北地域に勢力を伸ばしていたら邪馬台国は親燕倭王になっていたかもしれない。司馬懿による公孫淵討伐は日本の古代史の一ページを決定づけた出来事といえよう。