朕は国家第一の僕なり

タイトルの言葉は私が最も尊敬する歴史上の人物の残した言葉である。

誰だか分かるだろうか?

世界史を選択した方なら分かると思うが、18世紀に啓蒙先生君主として有名なホーエンツォレルン朝のフリードリヒ2世(大王)である。

18世紀のドイツは、諸侯が入り乱れており、神聖ローマ帝国という国の皇帝を中心となって多くの国に分かれていた。神聖ローマ帝国の皇帝はその中の大きな国であるオーストリアの君主が歴任していた。しかし、17世紀に発生した三十年戦争という宗教戦争によって神聖ローマ帝国の求心力は衰え、新興勢力であったプロイセンが勢力を伸ばしてオーストリアシュレジェンという鉱物資源が多く採れる地域をめぐって戦争をしていた。

 

周辺のヨーロッパの国々を巻き込んだ大規模な戦争となり、最終的にフリードリヒ2世プロイセン王国を勝利に導き、ヨーロッパの列強に肩を並べるまでに国を大きくし、現在のドイツという国を作り上げる原動力となった。

そんな彼になぜひかれたのかを上げていこうと思う。

 

 ・父親との確執を乗り越えるための力になった

フリードリヒ2世の父フリードリヒヴィルヘルム1世は兵隊王と呼ばれるほどの武辺者で宮廷の庭も練兵場にしてしまうほどであった。ところがフリードリヒ2世は父に似ず、芸術や音楽を嗜んだ。それが父フリードリヒヴィルヘルム一世には軟弱に見えたのだろう。彼は王子であるフリードリヒ2世を鞭で打つなどの虐待を行った。

そして耐えかねたフリードリヒ2世は彼の生母の実家である英国に亡命しようとするのであるが、逃亡中に親友のカッテとともに捕らえられてしまった。

フリードリヒヴィルヘルム1世は怒りのあまり二人とも処刑しようとするが、跡取りであるフリードリヒを殺すことには群臣からも、即位後に恩を売ろうという魂胆の諸外国からも反対に遭い断念した。

しかし、親友カッテはフリードリヒ2世の目の前で処刑され、少年フリードリヒ2世にとって大きなトラウマになった。

最終的には、神聖ローマ皇帝を始めとする諸外国の王侯のとりなしもあってフリードリヒは廃嫡を免れ、和解する。

 

私は中学、高校、大学と進学、就職に関して父親と大きな確執を抱えていた。一方的に干渉し、国民的アニメサザエさんの波平のように咎めたててくる。そのたびに争い、傷つき、毎回早い段階から受験を意識して対策を立てそれなりに成果を出してきたがそういった確執を意識するあまり思っていた結果には一歩及ばないものになってしまった。

そこに対して深い後悔と、取り除いてやりたいと何度も強烈な感情がわいてきた。

何かを成し遂げるには、身近な人間との確執を乗り越える覚悟と勇気がいるのだ。フリードリヒ2世が乗り越えてきた虐待に比べればこんなものは甘い。きっと乗り越えられるという確信を彼の生涯から感じた。

・教養のレベルが半端なさすぎ

ヴォルテールなどのフランス人の思想家とも親交が深く啓蒙思想に通じ、拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などの改革を行う。

・ドイツ語とフランス語のバイリンガルだったという。

・フルートの名手でフルート交響曲を何本も残している。

・飢饉に強い作物を研究し、ジャガイモの栽培を推し進める。ドイツ料理=ジャガイモなのもこれによる影響が大きい。

・人間嫌いな所が自分にそっくりだから

 フリードリヒ2世は人間嫌い特に女嫌いであり、美女で教養高いと有名な英国の王女と政略結婚するも、宮廷に決して立ち入らせなかったという。ただし、二人の間では文通によるやり取りは行われており、彼女はフリードリヒ2世のことを尊敬したという。

私は特に女嫌いではないが、イケメンでもスケベでもない私にとって恋愛や結婚のメリットや意義は見いだせていない。よって勉強したり、本を読んだり、運動したり、ゲームしたりする時間を削ってまでやるべきではないと判断し、恋愛・結婚には一秒も関わらないと決心した。にもかかわらず、大して異性にモテるわけでもなく、学業成績もイマイチな人間に恋人がいないことを理由に居丈高に説教されたり、人格にケチをつけてきたりされるのが非常に頭に来た記憶がある。

私は女性の友人と話したりLINEしたりすることは楽しいが、仰々しく付き合うのは煩わしいし、同居を義務付けられるのはイヤ。でも結婚による信用力は欲しい。だから彼らの結婚生活は私にとって理想なのだ。

・類まれなる幸運の持ち主

フリードリヒはオーストリア継承戦争(1748~1756)でオーストリア軍に勝利し、シュレージェンを占拠する。しかし、オーストリアの女帝であり、彼の天敵であるマリアテレジアはシュレジェン奪回のためにかなりガチでプロイセンを攻撃しにかかる。

かねてから折り合いの悪いフランスと同盟を結びさらにロシアにまで援軍を要請する。オーストリア一国でもプロイセンにとってはかなりの難敵なのに3国となればかなりの窮地に陥る。最強プロイセン軍もついに首都ベルリンに追い詰められ、ロシア、オーストリアの軍に包囲される。万事休す、フリードリヒ2世自身も自殺を考えるほど追い詰められたが奇跡が起こった。なんとロシア軍がオーストリア軍に対して猜疑心を抱くようになり、またオーストリア軍もロシア軍がなかなか動かないのをみて攻撃を躊躇してしまった。そこで両国は協議の結果グーベン条約を結んで、ロシアはバルト海近郊の東プロイセンを、オーストリアシュレジェンを領有すること(いずれもプロイセン領)、単独講和をしないことを約束した。これによってフリードリヒは軍隊を立て直すことが出来た。

さらに戦争終盤、女帝エリザベータが死去し、子のピョートル3世が即位した。

ピョートル3世はフリードリヒ2世の大ファンであったため、ロシア軍は一時的に味方になり、後に撤退。(彼の妻エカチェリーナ2世のクーデターによる撤退)これによってフリードリヒは窮地を脱しオーストリアに勝利することができた。

オーストリアとロシアがなかなか総攻撃をしかけなかったこと、ロシアが一時的に味方になったことはブランデンブルクの奇跡と呼ばれた。

私も慶応の商学部を浪人時にD判定をひっくり返して合格した時に彼の奇跡が自分にも起きると信じて勉強した。

このように彼の伝説は私の人生に降りかかる困難を乗り越えるのに大きく貢献した。

これからも私にとって尊敬すべき偉人として存在し続けるであろう。